ブライアン・メイにとってクイーンの最も輝ける瞬間は…結成40周年インタビュー
(Guitar World Magazine 2011年1月)

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「悪いね、頭にギアを入れるのにちょっと時間がかかるんだ」ブライアン・メイはクイーンの歴史に思いを馳せる前に少し笑いながら言った。63歳のギタリストは思い出せる限りのことを思い出して回答をしようと、懸命にその優しい口調で語ってくれた。

メイが研究者然とした雰囲気なのは当然だ。若い頃ロンドンの名門インペリアル・カレッジに入学し、クイーンに全力を傾けるために研究と天文物理学者としての有望な将来を棒に振るまで、そこに通っていた。クイーンのアルバムの世界総売上は推定で1億5000万から3億と言われる。その正確な数字がどうあれ、有望な宇宙学者にとってそれは確かに賢い人生の転換だった。

1971年、ベーシストのジョン・ディーコンの加入で、メイ、ドラマーのロジャー・テイラー、ヴォーカルのフレディ・マーキュリーのラインナップが完成した。それから20年かけて彼らは完璧なスタジアム級のロックバンドになっていった。マーキュリーは数万の観衆を巧みに操縦し、バックには堅実なリズムセクションが控える。それは派手なテイラーと巧妙に存在感を消すディーコンのミックスだ。

メイは一目で彼だとわかる。彼のトレードマークである長身のカーリーヘアによって、あるいは彼自身の手で作られたギター、レッドスペシャルのユニークな音によって。彼は静かに独り言のようにつぶやく。その様子はまるで、ロック史上最も素晴らしいリフを完璧に演奏しようとしている時のようだ。

クイーンはあらゆる点で壮麗であり、それは彼らのパーティーにおいても存分に発揮された。あの頃の悪名高い悪徳の宴では、いつも半裸の若い女性たちが溢れかえっていた。ただ残念なことに、コカインの皿を頭に乗せた小人の逸話は完璧に作り話だ。

「クイーンのそういう社交的なところが僕は好きだったよ。これまで誰もやったことがないことをするのはとても楽しかった」とメイは言う。「でも、僕には内向的で独りを好む一面もあったんだ。あの時代を振り返ってみると、僕はもしかしたら少々孤立しすぎていたかもしれない。でもたぶんそのおかげで正気を保っていられたんだ。」

1991年、フレディ・マーキュリーは45歳でエイズによる肺炎でこの世を去った。6年後ジョン・ディーコンは公人としての生活から引退した。クイーンのレガシーを守っていく役目は、後に残ったメイとテイラー、1968年にスマイルというバンドで初めて一緒に演奏して以来の同志、に託された。

今年はバンドの40周年を祝うために、クイーンの15枚のスタジオアルバムがリマスター・デラックス・エディションでリリースされている。

「すごくワクワクしているよ」とメイは言う。「本当に素晴らしい仕事だったよ。このアルバムをオリジナルのビニール盤を聴いた時の経験により近いものにするためにいろいろな策を講じたんだ。例えば初めてLPを開いたとき、あの独特の匂いがしたよね。残念ながら僕たちはその匂いまでは再現できないけど、あの音や感触に近づこうとしているんだ。それはすごく魅力的なプロジェクトだよ」


◆クイーン加入前のフレディの印象はどうでしたか?

興味深く派手な人物だったよ。とても自信家に見えたけど、すぐに内面はとてもシャイだとわかったよ。そう、彼は未知数だった。熱狂とエネルギーとアイデアに満ちていた。彼が歌えるかどうかなんてわからなかったよ。昔の彼のバンドで実際に歌っているのを見たとき、僕たちはあまり良いと思わなかった。とても大げさだったんだ。もちろんその後スタジオに入って自分の歌う声を聞いたり、自分のなりたいものになろうとし始めたとき、彼は急速に変わっていったよ。彼は自分の長所を見つけるのがとてもうまかった。

◆クイーンが初めて揃ったとき、あなたといちばん気が合ったのは誰でしたか?

答えるのは難しいな。全員が集まったとき、僕らはかなり複雑な集合体なんだ。一種の多方向の相互作用がある。だからクイーンはうまくいったんだ。ある意味で僕はロジャーととても近かった。すでにバンドで一緒にやっていたからね。僕たちはある意味兄弟なんだ、その頃も今も。目指すところもほぼ同じだったし、音楽への取り組み方も近かった。でも、もちろん他の多くの面で違っている点もあったよ。だから、あらゆる兄弟同士がそうであるように、これまで常に僕たちはおたがいに愛し合ったり憎み合ったりしてきたんだ。


◆フレディがバンドのメンバーになった後、あなたと彼の関係はどうでしたか?

ある意味、僕はフレディととても近い関係だった。特にソング・ライティングの領域においてね。はじめの頃、曲を書くのはだいたいフレディと僕だけだった。僕たちはお互いにとても生産的なやり方で、お互いの領分を侵すことなく、相互に作用しあうようになっていったんだ。最高の状態のときは、それは素晴らしい関係だったよ、まったくね。

クイーンにおける僕の最高の瞬間というのは、僕の作った曲でフレディのヴォーカルを作り上げるときだったよ。言ってみれば、彼をあらゆる方向からなだめたりすかしたりして歌を引き出したんだ。それ以外で最高の瞬間と言ったら、多くは、フレディがその逆のことを僕にしているときだった。僕がギターソロを弾いているときフレディは僕に言うんだ「ブライアン、これを試してみない?」って。彼は僕のギターソロを愛していて、それは僕にとってほんとうに励みになったよ。彼は僕のことを、ある意味、彼のジミ・ヘンドリクスだと思っていたみたいで、それは僕にとって何よりの喜びだった。僕の最高のギターワークのほとんどは、フレディが作った曲で弾いたものだよ。だって彼の曲はすごく刺激を与えてくれるから。自分が作った曲になると、僕は歌の方に集中してしまうんだ。


◆フレディが死に至る病に罹っていると知ったとき、あなたはレコーディングを続けたかったですか?

そうだね。彼はレコーディングが大好きだったし、スタジオの環境に身を置くのが大好きだった。レコーディングスタジオは、最後までずっと彼にとって最高の逃避場所だったと思う。だから、僕たちが最後の最後の瞬間までレコーディングをすることは彼の望みだった。彼は机にもたれかかりながら立ち上がって、ウォッカを何杯かやって、それに臨んだよ。

僕たちがレコーディングしたほんとうに最後の瞬間、僕とフレディは「マザー・ラヴ」を歌っていた。それは「メイド・イン・ヘヴン」の中の僕のお気に入りの一つだよ。彼は最後まで歌うことができなかった。彼はこう言った「ああブライアン、もう歌えないよ。もうここで死んでしまうよ」(笑)ってね。信じられないよ。彼は決して病に屈服したりはしなかったんだ。彼はいつでもユーモアと熱意たっぷりで、それについてのジョークも言ってたくらいだよ。

◆そうした最後のセッションで心が動転しましたか?

その当時、とても奇妙なことだけど、僕たちはバンドとしての絆を強めていって、とても楽しく過ごせるようになっていたんだ。もちろん暗い影が僕らにのしかかっていたけど、その影が在るのはスタジオの外だけだった。スタジオの中にはなかったんだ。その頃の素晴らしい思い出がたくさんあるよ。僕たちはおたがいに、それまでにはできなかったような、とてもオープンな関係になれたと思う。じっさい僕たちは初めて、完全なパートナー同士として曲を書いていた。だから...そうだね、ほんとうは、大きな不安の要素は常にあったよ。そう、僕らは医師の見解を知っていたし、この恐ろしい病に罹った人々に何が起こったかも見ていた。でもそれがフレディに起こりうるなんて信じられなかったんだ。いやそんなはずない、きっと何か奇跡が起きて、誰かが治療法を見つけてくれるはずだって、思っていた。だって彼はフレディなんだから。彼は無敵なんだからって。だからついにその知らせが来たときは、青天の霹靂だったよ。

◆あなたは彼にさよならを言うチャンスはありましたか?

(ため息)それは答えにくい質問だね。最後の日々、僕たちは多くの時間を一緒に過ごした。でもそれはさよならを言うという問題ではなかった。それはただ、ある瞬間を共有し合うという問題だったんだ。こういうことがあったのを覚えているよ。僕たちは彼の庭について話していた。というのは彼はベッドに横になっていてそこからは彼の庭がよく見えなかったんだ。僕たちは彼が愛する植物の話をしていた。そこにいたのはアニタと僕だったんだけど、彼は言った。「君たち、どうか僕に何か話をしなきゃなんて思わないでくれよ。君たちがここにいてくれることが大事なんだから。それだけで僕は楽しいんだから。だから僕をエンターテインしないといけないなんて思うなよ」ある意味、それこそが彼だったなって僕は思うんだ。驚くべきことに、全てのことのなりゆきを受け入れようとしていた。だから、答えはノーだね。さよならという言葉は言わなかった。でも僕たちは明らかに、とても安らかな境地にたどり着いていたんだ。

◆1986年のネブワースでのコンサートが、クイーンの最後のライブショーだという考えは頭にありましたか?

いや。フレディはこんなことを言ってた「もう嫌だ、もうできない、身体中が痛くてしょうがない」って。でも彼はツァーの終盤にはいつもそんなことを言ってたから、僕はそれを真剣に受け止めなかったよ。

◆フレディが最初にボヘミアン・ラプソディをバンドに持って来たとき、何か特別な曲だという思いはありましたか?

なかったね。このことは忘れて欲しくないんだけど、僕たちはすでにファーストアルバムで「マイ・フェアリー・キング」を作ってたし、セカンドアルバムでは「マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン」をやっていた。だから僕たちはフレディが未知の領域に踏み込んでいくことには慣れていてうまく適応していたんだ。だから楽しんでやれる曲だと思ったよ。

僕は個人的に、フレディが奇抜なアイデアを持ち込んでくるのが大好きだったよ。そういうアイデアから曲を作っていくのを僕はいつも楽しんでいた。彼はよくEフラットで曲を作っていたんだけど、それはギタリストには演奏しづらいんだ。Fシャープやなんかもそうだけど。だから僕は彼のピアノ演奏にぴったりくるかっこいいギターの音を探すというチャレンジを楽しんだ。すごく興味をそそられたよ。それが曲作りの偉大な一部分になっていくんだよ。

◆あなたが演奏したリフでお気に入りはなんですか?

多分「タイ・ユア・マザー・ダウン」だね。これを聞くと人々はすぐ飛びついてくるんだ、それはいい気持ちだよ。

◆そんなに高学歴で、あなたはバンドにいて満足いくような知的刺激を受けられると思いましたか?

興味深い質問だ。僕はクイーンはかなり知的なバンドだったと思う。だから僕たちは音楽以外のことでもたくさん議論をしたよ。その音楽自体とても挑戦的なものだし、刺激に欠けると感じたことはないね。僕はものを創っている時が好きなんだ。何かを作り、問題を解決していくのが好き。だからそうでないときの僕はあまり側にいたいような人間とは言えないね。忙しくしてないと、僕は酷い状態になるだろうね。いつもそうなんだ。

◆あなたがフレディとレコーディングした最後のアルバム「イニュエンドウ」はニルヴァーナのアルバム「ネヴァーマインド」と同じ年(1991)にリリースされました。もしフレディが生きていたらクイーンは、ロックが90年代にとった針路[ポストパンク、グランジ、オルタナティブロックなどクイーンと対極の音楽]にも関わらず、同レベルで続けていけたと思いますか?

答えるのは難しいな。バンドとして続けていたのは確かだと思うよ。バンドとしての僕らなしでそれが続いたという状況は信じがたいよ。だからおそらく答えはイエスだね。つまり、かつて世界の大半の地域で僕らがビッグだったのと同じくらい、今もビッグだろうと思うよ。少し前にポール・ロジャースと一緒に南米を再訪したんだけど、昔とほとんど変わらないほどビッグだった。またスタジアムでコンサートをしたんだ。だからイエス。僕たちはあいかわらず昔やったことを続けていたと思う。

◆引退を考えることはありますか?

ないよ。僕はビーチに寝そべっているタイプの人間じゃないんだ。何をすればいいかわからないから。

<追記>
これまで他の記事やドキュメンタリーで語っている内容と重複する部分もありますが、ブライアンのフレディへの想いがよくわかる記事です。お互いの才能を引き出し合いながら
音楽を作り出すことによって結ばれた2人の絆の強さに改めて感動。

フレディがブライアンに「君は僕のジミヘンドリクスだ」と言ったという逸話はあちこちで見たことあったんですが、ソースが見つからないでいた。まさかご本人がソースだったとは!!!


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2019年7月20日に英国BBC Radio2 で放送された ”Brian May's 1969” から、ブライアン・メイがクイーンの前に結成していたバンド、スマイルについて語っている部分を抜粋して紹介します。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」でスマイルのライブシーンがフィーチャーされたことから、スマイルやそのボーカリストでベーシストでもあったティム・スタッフェルへの関心が高まっています。2018年に再録音された Doin Alright のティムの歌には驚かされました。この素晴らしい声!ティムを演じるジャック・ロスが本当に歌っているような錯覚さえ覚える若々しい声です。




さて "Brian May's 1969" では、1969年を象徴するロックグループの曲をかけながらブライアンが話をする構成になっているのですが、その錚々たるメンツの中に、彼のバンド、スマイルの唯一のシングル Earth が入っているのです。この曲がリリースされたのは1969年8月、その後アルバムのレコーディングも開始しますが、結局スマイルは翌年2月には解散してしまいます。ブライアンはどんな思いでこの曲をあらためて聴き、「1969年のスマイル」を語るのでしょうか?




<ブライアン・メイが語る1969年② スマイル>

1969年を描こうとするとき、君たちの中には僕と同じくその時代に生きてた人もいればそうじゃない人もいるよね。そんな君たちのために、この年をよみがえらせたいと思うんだ。

それは僕にとって大きな意味のある年だった。その前の年にぼくはインペリアル・カレッジ・ロンドンを卒業していた。僕は自分で音楽を作ろうとしていた。僕たちは曲を書き、プロデュースをし、プランを立てたーースーパースターの座を手に入れるためのプランをね!ハ!なんてきちがいじみた夢だっただろう!僕らは早熟な若者たちだった。でも、まだクイーンじゃなかった。それを結成するのは次の年だ。僕らはスマイルという名のバンドを結成した。僕、ロジ、そしてティム・スタッフェルという名の若者。彼がヴォーカルでベースギターを弾いた。これから聴いてもらうのは、僕らが1969年にリリースした曲、Earth。

♪♪ Earth
 

僕の懐かしいバンド、スマイルでEarthでした。

この曲から僕たちがスペース・エイジ宇宙時代から多大な影響を受けてたのがわかるよね、実際ティムがこの曲 Earthを書いたとき、まさに1969年だったしね。僕らがレコーディングをしたのはトライデントスタジオだけど、ほぼ同時期に、同じスタジオでディヴィッド・ボウイが Space Odidity をレコーディングしていたんだ。このことについては後で話すよ。そしてたぶんこれも付け加えるべきだろうね、このシングルはほとんど売れなかった。アメリカのマーキュリーレコードというレーベルから発売されたけど、そんなの誰も聞いたこともなかった。それは僕らのキャリアの始まりとはならなかった。僕らはどこにも進めなくて気が滅入ったよ。たぶん、それがぼくらの解散の原因だったと思う。そして同じ理由から僕らはフレディといっしょにやるようになり、クイーンが生まれたんだ。

こうしてふりかえるのって僕は好きだな(笑)。この曲がすべての始まりで、ここからロジャーや僕自身のサウンドが生まれてきたんだ。そしてそれがクイーンのサウンドの基礎になっていった。それから僕らも(ジミヘンのように)掟を破ったよ。ライブで一種のフォークソングをとてもアナーキーなやりかたで演奏したよ、とてもエレクトリックに激しく(フォークソングの)”If I Were a Carpenter”をやったのを覚えているよ。すごく変わったアプローチで、それは僕たち独自のアプローチだったんだ。僕たちは他の人が書いた曲を僕たち流に変えて演奏することから始めて、次第に僕らだけの曲を書くようになったんだ。当時書いた”Doin Alright” やクイーン時代に続いていく”Keep Yourself Alive”とかね。

さて1969年、スマイル、つまり僕とロジャーとティムが幸運にもパブやクラブやカレッジなど小さなライブハウスでやってるときに、大きな場所で大きなコンサートをやっていたビッグなバンドがいた、たとえばハイド・パークでフリーコンサートをやったブラインド・フェイス。僕たち3人はそのコンサートに行っていたよ。ブラインド・フェイスは元クリームのエリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーがスティーヴィー・ウィンウッドとリック・グレッチと結成したスーパーグループで、短命だけど素晴らしいアルバムを創ったバンドだよ。僕はあの日のハイドパークを昨日のことのように覚えてるよ。陽の光が降り注ぎ、鳥たちが歌い、美しい音楽がパークの周囲をこだましていた・・・

♪♪ Can’t Find My Way Home










<追記>
スマイルは1970年に解散しますが、1992年12月に一度だけ再結成しています。ロジャー・テイラーのライブのゲストとしてブライアン・メイとティム・スタッフェルが登場し、EarthとIf I were a Carpenter を演奏しました。 ごめんなさい画質は悪いです。





 ブライアンがこの番組全体を通して伝えたかったことは、1969年という年がいかに革命的で刺激的な年だったかということだと思いますが、そこにブライアン自身のライフヒストリーを重ねてみたとき、スマイルというバンドもまた1969年にふさわしい刺激的で革命的なものを生み出そうと必死でもがいていた若者たちだったんだということがわかります。ちなみにブライアンは当時の自分たちのことを「早熟な若者たち precocious boys 」と呼んでいますが、これは、ブライアンが今年の「ロックの殿堂」スピーチで、出会った頃のデフレパードのことを表現するのに使ったのと同じ言葉です。若いデフレパードにスマイルの頃の自分たちを重ね合わせて見ていたのかなと思うと目頭が熱くなります…。

スマイルは不運にも、レコード会社のプロモーションなど環境に恵まれず、ヒット曲がないまま短命に終わったけれど、クイーンサウンドの基礎を作ったバンドとしてブライアンはこれまでも度々スマイルを評価しています。スマイルの曲をかけ、スマイルについて語った後は、スマイルの3人でコンサートを見に行ったブラインド・フェイスを懐かしむ。彼のスマイルへの思いが溢れるトークだったと思います。

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2019年7月20日英国BBC Radio2で放送された「ブライアンメイの1969年」の内容を大雑把にご紹介します。


番組の構成は、ブライアン・メイが1969年にリリースされたロックの名曲10曲をかけながら、その時代とロックをめぐる彼の経験を語るというものです。ちなみにその10曲とは

Led Zeppelin:  Communication Breakdown

Jimi Hendrix Experience:  Hey JoeSunshine of Your Love(Lulus TV show live)

The Beatles: Get Back

The Who: Pinball Wizard

Joe Cocker: With a Little Help from My Friends

Smile: Earth

Blind Faith: Cant Find My Way Home

Rolling Stones: Honky Tonk Woman

The Plastic Ono Band: Give Peace a Chance
David Bowie: Space Oddity
 

ここでご紹介するのは、最初の1/3ほどで、レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズについて語っています。





やあみんな、ブライアンメイです。

これからの1時間、あるユニークな1年における僕の経験を君たちとシェアしたいんだ。

何年のことについて話していると思う?

音楽、文化、科学の進歩によって僕をワクワクさせてくれた年。

ボーイング747が初めて空を飛び、TVはフルカラーに突如変わり、モンティパイソンのフライング・サーカスもカラーで放送開始した年。

デイヴィッド・ボウイやビートルズやジミ・ヘンドリックスやレッドツェッペリンが、僕たちに音楽の可能性について再考を迫った年。

そう、そして人類が月に人間を送り込んだ年。

もうみんなわかるよね、1969年だ。


ナレーション:1969年は、歴史上の重要年として常に記憶される年になるだろう。紀元前55年がイギリスにローマ人が初上陸した年として、また1492年がコロンブスがアメリカを発見した年として、記憶されるように。


さあ、まずこのデビューアルバムからスタートしよう。レッドツェッペリンのコミュニケーション・ブレイクダウン。

♪♪ Communication Breakdown


レッドツェッペリンのデビューアルバムからコミュニケーション・ブレイクダウン。驚くべき、衝撃の作品だね。1969年、レッドツェッペリンはレッドツェッペリンIとレッドツェッペリンIIをリリースした。そして10月にロンドンのライシアム劇場で5回ライブを行った。僕もロジャーと一緒にそこにいたよ。

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彼らを見ると僕たちは強烈に火をつけられたよ、なぜなら彼らはすでに僕たちがやりたかったことをやっていたんだ。僕たちがやりたかったヴィジョンを完全に捉えていた。彼らの音楽には、ハーモニー(あるいはメロディー)ギターが作るハーモニー、制御の利かない情熱、一切妥協しない危険性があった。心を奪われたし、また気が狂いそうなほど彼らに嫉妬したよ。


一般的な見方をすると、当時(1969−1970年)の僕らは必死にもがいている途上にあるバンドだった。君たちはバンドなのかいと聞かれて、クイーンだ、と言っても当惑されて相手にしてもらえない。そのあとしばらくして高速道路のサービスで君たちバンドなのかいと聞かれて、そうだレッドツェッペリンだと言うと対応が全然違ったよ。今はクイーンでわかってもらえるけどね

当時は、レッドツェッペリンのようになるのが夢だったよ、彼らのようなロックグループになりたかった。彼らが自分たちを操縦する態度は僕らにとって見習うべきお手本だった。


ジミー・ペイジはもちろんレッドツェッペリンのギターヒーローだけど、次のギターヒーローの話に行こう。ジミ・ヘンドリックス。

♪♪ Hey Joe

僕は1969年の1月にジミ・ヘンドリックス・エクスぺリエンスが「ルルのTVショー」に出たときのハプニングを覚えているよ。とても記憶に残るし、とても勇気ある行動だったよ。ジミはバンドと一緒に(彼らの曲)ブードゥー・チャイルドを演奏し、次にヘイ・ジョーを始めようとしていたんだけど、気が変わって、「これから別の曲をやるよ」と言ってクリームのサンシャイン・オブ・ユア・ラブを演奏し始めたんだ。

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クリームは当時、彼らのライバル・グループと言ってよかった。(今ではエリック・クラプトンは僕の友達だけどね)リハーサルをしていない曲を生放送で演奏するなんて、しかも自分の曲じゃないんだ、そんな信じられないようなリスクを伴う行動ができる人はそういないよ。でも頑張ろう。ここで彼らの危険な経験(エクスペリエンス)から究極のライブを聴いてみよう。
 

♪♪ Jimi Hendrix Experience:  Sunshine of Your Love(Lulus TV show live)
 

ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはすべてのルールを破ったんだ。当時ジミは彼のガールフレンドとギター、レコードプレイヤーとともにロンドンのメイフェアーのブルックストリートに住んでいた。そこは、これが起きた場所のすぐ近くだったんだ、サヴィル・ロウのアップルビルディングの屋根の上で…。

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アップルビルディングの屋根の上にいたのは、ビートルズだった。それは彼らが聴衆の前で行った最後のパフォーマンスだった。1969年は彼らにとってすごい年だった。イエローサブマリンとアビーロード・アルバムのリリース、そしてこのシングル「ゲット・バック」

♪♪ Get Back 


ビートルズで「ゲット・バック」すごい叙事詩。すごい演奏。その当時彼らに起きていたことについて多くを物語っている曲。もう彼らはお互いにうまくやっていけなくなって元に戻ること(ゲット・バック)ができなくなっていた。そしてこれがおおよそ彼らの最後の公での姿になった。
 

僕たちにとってのビートルズは、完璧なヒーローだった。テクニックについても、レコーディングスタジオをどう使うか、どうやって歌に生命を与えるか、そもそもどうやって曲を書くのか、パッションとどう折り合いをつけるか、どうやって純粋な音楽を、とても独創的な音楽を作るのか、といった点についても。そしてもちろん、社会変革、サイケデリック、平和革命といった観点でも。こういった夢のすべてが一つになったのが1969年だった。ある意味ではそれは実現してないと思うけど、でもそれはその当時の大きな夢で、ビートルズはそれを色々な意味で象徴していたんだ。

まだまだ1969年の話は続くよ、次はThe Who について話そう。 

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